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AIが業務に入り込むにつれ、AIに渡すデータの中身が回答の質を左右する場面が増えてきました。
個人の頭の中にある判断や、議事録や資料に残らない業務のコツを、どうすれば組織で使える状態にできるかは、AI活用の成果に直結する論点になっています。
頭の中の判断やコツをどのようにAIに活かすかを理解するには、「暗黙知」「形式知」という概念が重要になります。
この記事では、暗黙知と形式知それぞれの定義と違いから、暗黙知から形式知への変換方法、そしてAI時代おける暗黙知の位置づけと活用までの流れを整理します。
暗黙知とは、個人の経験や勘、身体感覚に基づく、言語化されていない知識を指します。
概念の原典は、哲学者マイケル・ポランニーが1966年に著した『The Tacit Dimension』にあります。
同書でポランニーは「we can know more than we can tell」(私たちは、語れる以上のことを知っている)と述べ、明示的に言語化できない知識の存在を指摘しました(The Tacit Dimension)。
その後、一橋大学の野中郁次郎教授は、この概念を経営理論に応用し、1994年発表の論文で組織の知識創造の中心概念に据えました(Organization Science, 5, 14-37)。
業務における暗黙知:
商談で相手の反応を見ながら提案の順序を組み替える営業の判断
機械音の変化から異常を察知する熟練工の感覚
クレーム対応の初動における言葉の選び方
特定の顧客ごとに使い分ける言い回しやメールの書き方
暗黙知は個人の頭の中に存在しているままでは、他の社員には伝わりません。
担当者が異動・退職した瞬間に、組織から失われます。
形式知とは、文章・図表・数値など、明文化されて他者に伝達可能な形になった知識を指します。
暗黙知とは違い、組織で共有・再現できるものを指します。
業務における形式知:
業務マニュアルと手順書
顧客管理システムに記録された商談履歴
社内WikiとFAQ
過去の提案書と議事録
形式知は他の社員が読んで再現でき、AIに参照させることもできます。
暗黙知が個人の中に残り続けると、組織側にはいくつかの問題が発生します。
ここではその問題と、形式知に変えることで得られるメリット、暗黙知を形式知に変える手法を見ていきます。
暗黙知が個人の中に蓄積されたままになると、業務が特定の担当者に依存しやすくなり、組織全体の生産性や柔軟性が低下する恐れがあります。
熟練者が持つノウハウや成功パターンが共有されないため、人材育成が進まず、企業としての成長スピードにも影響を及ぼし、担当者の異動や退職によって知識や経験が失われ、組織の貴重な資産を十分に活用できなくなる状態になります。
さらに続く問題として、リモートワークの普及による暗黙知の共有機会の減少も挙げられます。
これまでオフィスでの雑談、隣席での画面越しの観察、休憩時の相談といった非公式な接点を通じて自然に共有されていた暗黙知は、リモート下では個人の中に留まったままになります。
意識的に暗黙知を形式知に変換する仕組みがないと、暗黙知が個人に溜まり続け、組織で活用できないまま失われていく構造になっています。
熟練者や成功パターンと同じくらい、うまくいかなかった知識も残すことが重要です。
うまくいかなかった知識が残っていなければ、社内で同じ失敗・損失が繰り返されるからです。
商談管理システムを開けば、受注したか失注したかは記録されています。
しかし「どの説明で相手の関心が離れたのか」「なぜこの順序では響かなかったのか」は、記録されません。
結果は数値として残り、判断の理由は個人の記憶に残る、という分断が起こります。
失敗の知識は、この分断がさらに極端になります。
うまくいった案件は成功事例として社内で共有される機会がありますが、うまくいかなかった案件は原因の報告で区切りがつき、次の担当者が読める形には残りません。
その結果、別の担当者が同じ状況で同じ判断をして、同じ要因で失敗します。
1人が数年かけて身につけた「この状況ではこうしない」という判断は、次の担当者にもまた数年分の経験を求めることになります。
関連記事:人が辞めても、「あの人の経験と知識、そして目」は残せるか
では、暗黙知を形式知に変換していくと、以上の問題に対してどのような効用が得られるでしょうか。
主なメリットは次の4つに整理できます。
業務の属人化が解消される
判断基準や手順が文書化されているため、担当者の休暇・退職・異動があっても、他の社員が業務を引き継いで継続できます。
新入社員や中途採用者の立ち上げが早まる
過去の判断事例や手順書を参照して自己学習できるため、ベテランへの質問と回答の往復に頼らずに業務を覚えられます。
業務品質のばらつきが減り、成果を一定に保てる
同じ状況に対する判断基準が明文化されているため、担当者が変わっても顧客に提供する成果に一貫性を持たせられます。
生成AIから参照可能な状態に接続できる
暗黙知が形式知化されていると、AIが社内の業務判断を参照することができます。
そして、暗黙知を形式知化するための経営手法として整理されたものが、ナレッジマネジメントです。
ナレッジマネジメントは、組織内に点在する知識やノウハウを収集・整理し、社員間で共有・活用することで組織全体の生産性を高める経営手法を指します(『知識創造企業』)。
この体系の中で提唱された理論が、実務でナレッジマネジメントを進める際の中心となります。
次章で提唱された理論を見ていきます。
ナレッジマネジメントの中心となるSECIモデル・場モデルを整理します。
関連記事:ナレッジマネジメントとは
SECIモデルは、組織内で暗黙知と形式知が変換されるプロセスを4段階で示した理論です。
共同化(Socialization):
経験の共有を通じて、個人の暗黙知が他者の暗黙知として伝わる工程です。
表出化(Externalization):
個人の暗黙知を言語や図表として明文化し、他者に伝達可能な形式知に変換する工程です。
連結化(Combination):
複数の形式知を組み合わせ、新たな知識体系を作り出す工程です。
内面化(Internalization):
組織で共有された形式知を、個人が業務を通じて実践し、自分の判断や技能として身につける工程です。
4つの工程は順に循環することで、組織全体の知識が拡張されていく前提で設計されています。
SECIモデルを機能させる上で重要なのが、「場(ba)」という考え方です。
各プロセスそれぞれに対応する「場(ba)」が定義されています。
創発場(originating ba):
共同化に対応する、対面の接触を通じて経験を共有する場。
OJT、同行営業、合宿など。
対話場(dialoguing ba):
表出化に対応する、複数人で暗黙知を意識的に言語化する場。
マニュアル作成、商談内容の記録、ケーススタディ化など。
システム場(systemizing ba):
連結化に対応する、形式知が集約・編集されるデジタル空間。
社内Wikiやナレッジベースへの集約、AI参照用データ基盤への統合など。
実践場(exercising ba):
内面化に対応する、日々の業務そのもの。
システム場を活かした業務遂行や業務判断など。
各工程はそれを促進する固有の場の中で起こる、という考え方です。
リモートワーク下では創発場が減少するため、対面や共同作業の機会を意識的に設計する必要があります。
ここまで、暗黙知が組織に溜まると起こる問題、それを形式知に変換して得られるメリット、そして変換を進めるためのナレッジマネジメントの4理論を見てきました。
ここからは、生成AIが業務に定着した2023年以降において、暗黙知がどのような役割と価値を持つのかを整理します。
生成AIが普及するまで、社内に蓄積された形式知(マニュアル・議事録・顧客対応履歴など)を業務に活かすには、担当者が該当ファイルを探し、目を通し、必要な部分を抜き出す作業が必要でした。
文章・画像・音声といった非構造化データは、ルールベースの処理では扱いが難しく、データ活用や分析は一部に限られていました。
2023年以降の生成AIの浸透で、この状況は変わってきています。
文章の要約、画像内容の記述、音声の文字起こしと分類など、担当者が読み解いて手作業で処理していた工程が自動化されてきました。
つまり、形式知化されたデータを活用できる範囲が、AIにより簡易的になり、広がったと言えます。
誰かが書き出した業務判断の記録が、AIに参照され即座に業務に活かすことができるようになりました。
活用ハードルが下がった分、AIから返ってくる回答の質は、AIに渡せる社内知識の中身に依存するようになっています。
一般的な質問への回答であれば、AIが学習済みの公開情報だけで対応できます。
しかし「自社の意思決定を再現する」「業務判断を支援する」まで求めるとなると、公開情報だけでは足りません。
過去の判断の背景、業種特有の商談パターン、顧客ごとの対応履歴といった、社外には存在しない情報が必要になります。
これらは大半が暗黙知として個人に留まった状態にあり、形式知化されていない限り、AIには渡せません。
たとえば「商談後、次にどう動くべきか」をAIに問うとき、返ってくる回答は暗黙知の状態によって次のように変わります。
【暗黙知が形式知化されていない場合】
「次回の商談では、決裁者の反応を確認しながら投資対効果の説明を丁寧に行うことをおすすめします。一般的な提案書のテンプレートを添付します」
【暗黙知が形式知化され、AIに渡されている場合】
「本案件は現時点でフェーズ2に該当します。過去の類似商談では、購買部同席後の2回目の商談までに投資対効果の試算資料を用意した案件は成約率が高い傾向にあります。試算資料のドラフトを添付します」
自社文脈に沿った具体的な回答は、AIに渡す暗黙知の量と質があるからこそ得られる出力です。
生成AIツールが業務に入り込んでも、返ってくる回答が一般論に留まりがちなのは、暗黙知の形式知化と、AIから参照可能な状態への整備が追いついていないことが背景にあります。
暗黙知がどのように形式知に変換され、AIのアウトプットに至るかを、営業商談を例に段階を追って見ていきます。
【段階1:暗黙知として個人に溜まっている状態】
製造業向けの提案営業を10年続けてきたベテランが、「相手が『社内で検討します』と言った後、購買部が同席する2回目のミーティングで投資対効果の試算資料を用意しないと、商談が流れる」という感覚を持っているとします。
その担当者は、聞かれれば言葉にできます。
ただし普段は言語化されておらず、社内の他の担当者は同じ判断を再現できません。
【段階2:形式知として文書化された状態】
チームでの持ち回りレビュー(SECIモデルの表出化と対話場に相当します)を通じて、この感覚が「業種×顧客反応×次アクション」の対応表として社内Wikiに置かれます。
「なぜその判断が必要か」の根拠として、過去の失注案件と成約案件の対比も併記されます。
【段階3:AIから参照可能な状態に整えられる】
実際に商談が行われた後、顧客管理システムや社内ドキュメントに分散していた情報(顧客企業・業種・商談履歴・提案書・議事録)が、AIから参照可能なデータ基盤に集約されます。
「社内で検討します」という言い回しが特定の商談フェーズを示すといった業務語の意味定義や、過去の商談で下された判断とその理由も、AIが読み取れる形で整理されます。
【段階4:AIが返すアウトプット】
営業担当者が商談後ネクストアクションを相談すると、以下のような回答が返ってきます。
「本案件は現時点でフェーズ2に該当します。同業種の過去17件で同じ反応が出た商談のうち、購買部同席の2回目までに投資対効果の試算資料を用意した案件は11件が成約、用意しなかった案件は6件が失注しています。試算資料のドラフトを添付します」
「同業種の過去案件では、決裁権者が同席しないミーティングが3回続いた場合の失注率が高い傾向にあります。決裁者の同席を打診するメール文面のドラフトを添付します」
このように、もともと暗黙知だった情報は形式知とAI参照を経て、段階4のようなアウトプットとして提示されるようになります。
この4段階は、SECIモデルにそのまま対応しています。
段階1が暗黙知、段階2が表出化、段階3が連結化、そして段階4を経て担当者が新たな判断基準を身につけることが内面化に該当します。
1つの営業商談を追うだけで、SECIモデルの循環がどう回るかが見えます。
多くの企業で見られるのは、段階1と段階2の間で止まっている状態です。
段階3の整備が進んで初めて、段階4のように自社の判断基準を反映したアウトプットが得られます。
暗黙知を形式知にしてAIから使える状態にするまでには、4つのステップがあります。
最初に決めるのは、誰のどの判断を言葉にするかです。
AIに答えてほしい問いを1つ決め、その問いに答えるために必要な判断から言葉にしていきます。「見積もりの値引き幅をどう決めているか」「この業種の初回商談で何を持っていくか」といった内容です。
書き出す形は、状況・判断・理由の3点です。
結論だけを書いた手順書は、書いた本人以外には使えません。
どういう状況でその判断をしたのかと、なぜそう判断したのかが揃って初めて、初めて読んだ人もAIも、別の案件に当てはめられます。
この工程は、前章のSECIモデルでいう表出化にあたります。
書き出したものが個人のメモアプリやアクセス権限が本人のみの場所にあると、AIからは参照できません。
社内で活用できるようにするために、置き場所を1か所に決めます。
ファイル共有サービスの特定のフォルダでも、社内Wikiでも構いません。
同じ場所に集めただけでは、AIは中身を正しく読めません。
同じ取引先が「株式会社◯◯」「◯◯」「◯◯商事」と別々の表記で書かれていると、AIはそれらを別の会社として扱います。
同じ業務が部署ごとに違う名前で呼ばれている場合も同じです。
表記を揃え、同じものを指す言葉を1つに寄せる作業が必要になります。
あわせて、いつ時点の情報なのかやダレン判断なのかが分かる状態にします。
改訂前の手順書と現行の手順書が同じフォルダに並んでいると、AIは古いほうを答えることがあるからです。
こうした整備を経て、AIが正確に・安全に読める状態になったデータを AI-Ready Data と呼びます。
最後に、AIが社内のデータを読んで答える仕組みをつくります。
質問を受けたときに社内の文書を検索し、見つかった内容をもとに回答を組み立てる仕組みは、RAG と呼ばれます。
AIに渡して終わりではありません。
返ってきた回答が実際の判断とずれていたら、原因を探します。
元になる判断がまだ書き出されていないか、書き出されていても表記が揃っていないか、AIが探しに行く範囲に入っていないか等です。
ずれを見つけたら、該当のステップに戻って直し、回答が改善されているか確認します。
この往復を繰り返すことで、AIの回答が自社の判断に近づいていきます。
暗黙知とは、個人の経験や勘に基づき言語化されていない知識を指し、形式知とは文章・図表として明文化されて他者に伝達可能な知識を指します。
2020年代後半、生成AIの浸透によって形式知の活用範囲が広がり、暗黙知の量と質がAIの回答を左右するようになりました。
暗黙知が形式知になり、データ基盤に集約され、AIのアウトプットに至るまでの4段階を1つのシーンで追うと、SECIモデルが実務でどう回るかが見えてきます。
暗黙知の形式知化は、単なる文書化ではなく、生成AIから自社文脈の回答を引き出すためのデータ整備における重要な要素です。
暗黙知を形式知化する運用を組織で回していくことが、AI活用時代で企業の成長を左右するポイントになります。
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